21 September 2006

アズレージョとは


The word azulejo (tile) comes from the Arab al zulaycha or zuléija, meaning a little polished stone.
A tile is a thin slab or plaque of fired clay, glazed and painted on one side, usually square in shape and of varying thicknesses and dimensions. Portuguese tiles are traditionally 14 x 14 cm. Some of the most important buildings in Portugal, such as royal and noble palaces, as well as churches and convents are faced with tiles, that sometimes completely cover the interior.
This original use began in the 16th century, and by the 19th century it had been transformed into huge revetments covering the façades of buildings, and it has been continued with great effect up to the present day on Metro stations in Lisbon, the Oceanarium and other public institutions.

(Museu Nacional do Azulejo、国立アズレージョ美術館の展示より)

19 September 2006

中国人であるかどうかという些細な問題

ヨーロッパには外国人や移民に関するジョークが数え切れない程ある。ポルトガルのコメディの有名な台詞で、

「Eu não ser chines, ser japones.(俺は中国人じゃあありえない、日本人だ)」

というのがあるが、このジョークをどう思うだろうか。

先週末、マドリードに宿泊した時の出来事。いっしょに出かけた人数が多かったため、僕らは3つのペンシオンに分かれて宿泊していた。日曜日の朝、僕がゴンサロたちが泊まっている宿へ行くと、

「オラー、チニート!」

と言って宿のおばちゃんが僕に微笑みかける。ゴンサロの友人が、彼は中国人じゃないよ、日本人だよ、と言っても無駄で、おばちゃんは僕を中国人と呼んでくる(チニートだから中国人ちゃん、といったところか)。

日本人を中国人と間違える、これはヨーロッパではよくあることだ。間違える、というよりも、彼らには区別がつかないと言った方がいい。そしてたいていの場合、彼らに悪意はない。先のペンシオンのおばちゃんの場合は僕に呼びかける言葉(つまり僕の名前)がないために、手っ取り早く「チニート」を選んだだけだ。ポルトガル、スペイン、おそらく欧州の全ての国において、話しかける前に必ず名前や愛称を呼ぶのは普通のことだ。

それにしても、「チニート」呼ばわりはないのではないか、それはあんまりではないか、と思うかもしれない(事実、このおばちゃんはちょっと変というか、ボケはじめの感はあった)。僕もポルトガルへ留学して来たころはそう思っていたし、働き始めてからも、事務所に研修に来ていたフランス人の学生とその手の話題で口論(罵り合い)をしたりした。そんな言い方は絶対に許されるべきではないと思っていた。

でも、1年くらい前から、そんなことにいちいち憤慨しているのは馬鹿らしいと思い始めた。悪意のある言い方は当然許されないが、悪意がない限り、彼らは親しみをこめて、半分冗談でそういう呼び方をしているのだということが分かってきたこともあり、ある程度受け入れることができるようになってきた。

何よりも彼らの立場に自分を置いてみるともっと受け入れることができる。アジア、アフリカ、東欧、南米諸国からひっきりなしに入ってくる移民と絶えず付き合わなければならない彼らの立場も理解するべきである。彼らの歴史の結果だから自業自得だ、と言うかもしれない。でも少なくとも現代に生活する彼らに非はない。

彼らは移民とともに生活をしていかなければならない。トラブルは日常茶飯事で、これは日本で生活する日本人には想像のつかないものだ(もちろん日本にも外国からの移民はいるわけだが、それにもかかわらず彼らが存在しないものとして生活することが可能なのが日本だ。)一方で彼らは笑顔で挨拶を交わしたり、世間話をしたりして、できるだけトラブルを避けようともしている。彼らは互いにコミュニケーションを取って生活していかなければならない。たとえ肌の色や体つき、顔の特徴、言葉のアクセントが違っても、だ。

そういう中、差異や特徴をジョークで昇華するのはとても賢いやり方なのだ。言われた方も、そうね、私はあなたと違うものね、と言っていっしょに笑い飛ばす。相手のジョークに乗ってその間に存在する差異をいっしょに吹き飛ばしてしまうのだ。なんでもかんでもジョークで片付けるのは低レベルな話だ、と言うかもしれない。しかし、やってみれば分かるが、ジョークで笑い飛ばすというのはかなりの精神的成熟を要する。彼らのジョークにいちいち激怒していては、自分の人間のレベルをさらけ出してしまうだけなのだ。

「俺は中国人じゃあありえない、日本人だ」

とは、日本人役のポルトガル人役者が中国人呼ばわりされたときに発する台詞なのだが、真剣な表情でその台詞を言うのがおかしい。ポルトガル人からしてみれば、どっちでもいいじゃないか、とツッコミを入れたくなるのである(無論、このセリフのおもしろさは役者の演技あってのものである)。

中国人と日本人がいっしょだと彼らは言いたいのではなく、中国人も日本人も彼らからすれば全く別の生き物なのだ。

17 September 2006

3つのコンペ

休暇後、10月中旬までに事務所は3つのコンペ提出を抱えていたが、先週金曜日、タヴィラの美術館の分が終了した。ゴンサロを中心として僕も参加したコンペだったが、なかなかおもしろいものができたのではないかと思う。もっともこのコンペに対するジョアン・ルイスのやる気は最後まで感じられなかったのだけれど。

ジョアン・ルイスは他の2つのコンペに情熱を注いでいる。一つはスペイン、ジローナの病院コンペで既に6つの事務所に絞られている(磯崎アトリエも含まれている)。バルセロナのコレア・イ・モラン事務所と協働している。もう一つはアソーレスの図書館コンペ。これにはソウト・モウラ事務所も参加している。

休暇前の超暇だった期間とは対照的に、これからさらに忙しくなりそうだ。僕は月曜日からまたリチャルディ、ゴンサロとともにアソーレスのコンペチームに入る。これまで実施設計ばかりに関わっていただけに、タヴィラのコンペから気分一新で仕事に取り組むことができている。

今週末はコンペの間の一休みに、ゴンサロとともにマドリードまでゴルドン・マッタクラークの展覧会を見に行ってきた。この展覧会の様子はまた別の日に書くことにしよう。往復10時間のドライブをしたゴンサロは一休みどころかまた疲労を溜め込んだだけだったかもしれない。時々翻訳サイトにかけて僕のブログを読んでいるというゴンサロだが、今日は翻訳サイトにかける手間を少しだけ省いてあげよう。

Muito Obrigado, Gonçalo!!

10 September 2006

旅の終わりと初めての旅



旅の最終地はサン・セバスティアン。サンタンデールを早朝にバスで出発し、午前9時に到着。サン・セバスティアンを訪れたのは実はこれが3度目だったのだが、今回の目的はサン・セバスティアン郊外のエドゥアルド・チリダ(Eduardo Chillida)の美術館を訪ねることだった。

スペイン人彫刻家チリダを知ったのは約7年前に初めてスペインを旅したときだ。マドリードのレイナ・ソフィア美術館でロバート・キャパの写真展とともに、チリダの展覧会が行われていた。その頃はまだチリダも存命中で、現役で活躍していたことになる(チリダは2002年8月19日に亡くなる)。レイナ・ソフィアでチリダの作品を見て僕はとても興奮したのを覚えている。そのときの旅行に持ってきていた、小遣い帳にしかなっていなかったメモ帳に「CHILLIDA」とメモしたのを覚えている。

その後、メモしただけあって名前は常に覚えていたが、特に作品集を探すほどのことはしなかった。そのときの旅行は初めての海外一人旅で、あらゆるものが新鮮で驚きに満ちていて、僕は30日間興奮状態にあったから、チリダに興奮したのもそのせいだと考えていたのかもしれない。

そして7年後にスペインの隣国ポルトガルで働き始めて、同僚のゴンサロとチリダや同じスペイン人彫刻家オテイサの彫刻の話をしているうちにまた僕は興味を取り戻しつつあった。ちなみにゴンサロは大学在学中のデッサンの授業でチリダに出会ったそうだ。

Museo Chillida-Lekuが正式名称のチリダ美術館は12ヘクタールの広大な敷地を持つ。敷地内にあった1543年築の廃墟同然の農家にチリダは惚れ込み、ホアキン・モンテロという建築家と時間をかけて改修している。彫刻の保管場所だったその農家が今では美術館として使われている。同時に敷地内の広大な庭にも彫刻が展示されている。

チリダの作品は世界中に散らばっているが、サン・セバスティアンの海岸にある「風の櫛(Peine del viento)」という作品が有名だ。僕は前回サン・セバスティアンを訪ねた時にその彫刻を見たと思っていたが、今回きちんと場所を確認して行ってみると、そのとき見たものと違うことに気づいた(中心地からかなり歩くのだが、そんなに歩いた覚えはない)。海外のガイドブックにはきちんと場所が記されていることもあり、チリダの彫刻の周辺は観光客でごった返していた。おまけにすぐ近くに夏のライブコンサート用のテントが設営されていたりして、ゆっくり落ち着いて鑑賞することはできなかったが、美術館を含め、再びチリダの作品を見れたことにうれしくなり、自分の思い違いに気づいたことで何かすっきりした気分にもなった。まだまだ彼のことはあまり知らないし、チリダの作品集がほしくなった。

午後10時30分、名ばかりは旅情をかきたてる「Sud-Express」でリスボンへ向かう(お世辞にも快適とは言えない)。こうして1週間の長い旅が終わろうとしている。星の山脈を越え、緑の海岸へたどり着き、フランス国境近くの街までやって来た。変わりゆく景色やスペインの食を堪能し、最後は7年越しでチリダの彫刻と向き合うことができた。あまり準備をせずに出てきたけれど、かえってそれが初めてスペインを旅行したときの初々しい気分を思い起こさせてくれた。

あの、7年前の旅行は、自分を取り巻くいろいろなものに今でも影響を与え、時間を越えてからみ合っているように思う。

09 September 2006

サンタンデールの怪しい宿

オビエドで宿を探すのに苦労したものだから、まだ3日間残された旅の今後を考えると気が重い。オビエドをバスで出発し、サンタンデールへ到着するまでの約3時間、宿探しに備えて熟睡する。もはや開き直るしかない。

午後6時過ぎ、サンタンデールのバスターミナルに到着。バスターミナルを出て早速宿探しを開始。まず最初に見つけたペンシオンのベルを押す。オビエドの経験から満員の場合はベルにすら応答しないことが分かっていたので、扉のカギがあっさりと開いたのに驚く。運良く1件目で部屋にありつけるという期待が高まる。そして愛想のいい女主人が一部屋空いていると言う。しかしペンシオンにしては宿泊料がちょっと高い。僕が迷っていると、少しの間キープしておいてくれるという。なんとも親切な宿だ。

そして他の宿を探しに出かけるためにそのペンシオンを出た途端、50前後の男が僕に話しかけてくる。

「宿を探しているのか?」

そうだ、と言うと、彼は無表情のまま、

「宿はあるぞ、プリバードだけどな。」

と言う。プリバード?と思うが値段を聞き、部屋を見せてくれと頼む。そして僕らはそのプリバード(要は個人宅なのだが)の宿へ向けて歩き出す。不安がないわけではなかったけれど、以前旅行したときにも同じようなことを経験していたし、何しろ宿を見てから決めればいいことだ。

「マリアさん」のお宅へ連れてこられた僕に、男はマリアさんを紹介し、ここがお前の部屋だ、と言って一室のとびらを開ける。そこはリビングルームでテレビやテーブル、その他の家具とともにベッドが置いてある。リビングに寝てください、というわけだ。この50前後の男がぶっきらぼうである以外は、マリアさんという女性も家も普通だし、宿代もさっきの約半分で済むし、この宿に泊まることにした。そこには2泊したのだが、いざ滞在し始めれば快適そのものだった。

マリアさんに連れて行ってもらったレストランも良かった。いかにも地元の人しか行かなそうな、お世辞にもきれいとは言えないそのレストランで僕は2日間とも夕食をとった。2日目の2皿目にコルデロ、子羊を注文したのだけれど、僕が食べ終わる頃、もう一皿食べるか?と言ってカマレロがこの日3皿目でもある2皿目のコルデロを運んでくる。気前の良さにうれしくなり、2皿目も食べてしまう。パンを食べたか、バターを使ったかなどと細かくチェックする隣国ポルトガルのレストランのことを思う。食事の満足度に対して値段が付けられている国と、食事の材料に対して値段が付けられている国との文化的差異、という風に言っておこう。

このレストランでは今まで見たことのないデザートにも出会った。僕が子羊の肉を2皿平らげた後、デザートにアロス・コン・レチェを頼んだ。すると、出てきたアロス・コン・レチェの表面が焼いてあるのだ。アロス・コン・レチェとクレマ・カタラナが同時に為されていることになる。そうか、こういうのもありなのか、と思いながら食べる。両方の良さがそのまま出ていて、文字通り2度おいしい。

スペインの食事には「おもしろい」という言葉がぴったりだ。ポルトガルのレストランのどこか「堅実な」食事に慣れていると余計にそう思う。アストゥリアス名物のシドラの注ぎ方もおもしろかった。頭の上から足元近くのグラスへ向けて勢いよく注ぐ。そうやって注がないとおいしくならない。ピンチョやタパスのシステムは食事の量や時間をうまく調節できて便利だ。

サンタンデールではかなり怪しい宿に泊まってしまったけれど、おかげでおいしい食事にありつくことができた。やっぱり宿は予約しない方がいいのかもしれない。

08 September 2006

オビエド



オビエドに到着したときの印象がなぜ悪かったかと言うと、バスターミナルや鉄道駅付近のいわゆる駅前再開発のせいだ。駅舎自体はいかにも地方都市のそれで派手さはないが、よく見れば屋根の鉄骨のストラクチャーや、屋根の上を公園としている点など興味深いところはある。しかしそのすぐそばに隣接して立てられた高層ホテルや集合住宅がどうもぱっとしない。はやりの建築を平均したような建物群だ。スペインではときどきこういう建物に遭遇する。お金がある故に変化は激しいが、取り返しのつかないミスを犯している場合もある。(ポルトガルはその逆で、お金がないのでプロジェクトがプロジェクトのまま終わってしまうことが多々あるが、同時に取り返しがつかなくなったということも少ない、と思う)。

オビエドの旧市街地はほんの少ししか残っていないが、一部は世界遺産にも登録されているようである。確かにその地区の雰囲気はかなり特異なものであり、スペインの他の都市では見ることのできないものだが、正直、渋い選択だな、と思う。建物の色とりどりな感じはポルトガルの街並みを思わせるが、全体的に色が暗めである。カテドラル周辺の建物に使われている石材は何のだろうか、他ではあまり見ない茶系の色をしている。この石材はオビエド周辺のいわゆるアストゥリアス建築と呼ばれている建物群(これらのいくつかも世界遺産)にも見られる。

旧市街地と鉄道駅を結ぶウリア通りを軸として新市街地が形成されているが、そこにはそれほど魅力はない。ごくわずかに残った旧市街地に魅力が集まっているが、オビエド全体としてはなかなかいい街だという印象を結果的に持った。

オビエドに到着して眠りにつくまでの話

サラマンカから途中バスを乗り継ぎ、オビエドに到着したのは午後8時過ぎ。アストゥリアス地方に入り、徐々に緑の増えていく風景に見入っていたものの、バスがターミナルに近づくにつれ見えてきたオビエドの街に僕は不安を覚えずにはいられなかった。日没後すぐでまだ明るいが、空は曇っている。きっとこの曇り空のせいで街の印象が悪いのだろう。そうであってほしい。

バスから下りる。寒い。

街の印象が悪かろうが、とにかく宿を探さなければならない。駅前からホテルやペンシオンを見つけるたびに空室があるか聞いていく。気の毒そうに、すみません、と言ってくれるところもあれば、ドアのベルの横に、conpleto、と小さな貼り紙をしているところもある。でも、部屋はありますよ、と言ってくれるところは、一つもない。

ま、あせるな、と自分に言い聞かせる。一つくらい空いているだろう。とりあえずツーリストインフォメーションに行けばすぐに済むことだ。何もあせることはない。

ツーリストインフォメーションは閉まっていた。午後8時過ぎに着いたのだから当然と言えば当然のことだ。ここで怯む前に、

「僕は探した、オビエドの街という街、ありとあらゆる宿泊施設を尋ねて回った。」

と言えるほど探しただろうか。いや全然だ。まあ観光しながら探せばいいじゃないか、荷物がちょっと重いけれど。

僕は探した。オビエドの街という街、ありとあらゆるしゅくはくしせつを。でも見つからなかった。シドレリア(シドラ酒レストラン)では地元の人や観光客が楽しそうに飲み食いをしている。でも僕は今日は駅に泊まることになりそうだ。バカンスを甘く見ていた。でもバカンスはそんなには甘くなかった。シドラといっしょだ。

駅のバルでピンチョをつまみにビールを飲みながら、やれやれと思う。まさか宿が見つからないなんてことが本当に起きてしまうとは。本当に、やれやれ、だ。

駅のバルが閉まる。時刻は午後11時。まだまだ夜は長い。しかも寒い。寝たくても寝れなそうだ。駅でも探検してみるか。長い階段がある。階段でも昇ってみるか(そのために階段はある)。僕の心理状態はそんな風だった。だから僕は階段を昇り、それから街の方を振り返って見てみた。

「P」が見える。

どうせコンプレートだろう。駅前のこんな立地のいいペンシオンが空いているわけがない。でも、、、。まあ行くだけ行ってみるか。

そして僕は運良く空いていた一室に転がり込むことができた。もの忘れの激しいペンシオンのおばちゃんとのスペイン語のやりとりには苦労したが(1秒前に言ったことを忘れ、30秒後に同じことを聞いてくるタイプ)、今日僕は寝ることができる。寝ることができると思うと、何だか寝たくないような気分になってきて、近くのバルに出かけ、コルタードを飲みながらテレビでサッカーニュースを見る。さらに宿に帰って、持ってきていた本を読む。ひと安心、ひと安心。僕はそのときニコニコしながら本を読んでいたのではないかと思う。

02 September 2006

サラマンカ



この旅で唯一ホテルを予約していたのがサラマンカだったけれど、ホテルにたどり着くのにはかなり苦労した。予約したときのemailにはサラマンカ大学の(名前は忘れたが)ある建物の前と書いてあるのだが、まずその建物が見つからない。そのサラマンカ大学の新しいキャンパスはバスターミナルのすぐ隣にあり、ホテルもバスターミナルから徒歩5分と書いてあるのですぐ近くであるのは間違いない。まあ歩いていれば見つかるだろうと思い、キャンパス付近を歩くが見つからない。キャンパス内の大学寮の管理人に聞いてみるが首を傾げるばかり。このホテルは大学の学生寮として建てられたものを一般客にも開放しているものなので、管理人は知っているものと思ったのだけれど。結局ホテルに電話をして道を教えてもらう。聞けば何のことはない、バスターミナル横の通りをまっすぐ下って行くと、確かに徒歩5分程でホテルに到着した。

約10時間の長旅の疲れもあって、しばらく部屋で休む。もっともポルトガルやスペインの午後5時は暑すぎてとても外を歩く気にならない。それで1時間程休み、ホテルから徒歩15分程の街の中心部に向かう。ポルトガルからスペインへ行くといつもそうなのだが、街の修復具合の差に驚く。しかもサラマンカなどの日本でも名の知れた都市になると、僕からすればほぼ完璧に修復されている。経済力の差を実感する瞬間である。もっとも後に訪れたオビエドでは僕はまた別の感想を持つのだけれど。

特にサラマンカに目的があってきたわけではないので、ただぶらぶらと街を歩く。そして時々通りがかった教会に入って中を見学したり、ショップで何かおもしろいものはないかと物色したりしながら夕暮れ時の街を歩く。

日が暮れ、街に明かりが灯り始めた頃、僕は1軒目のバルに入る。ぶらぶらと街を歩きながら後で腹を満たすのに良さそうなバルに僕はめぼしを付けてもいた。マヨール広場付近の小さなバルでチョリソと炊き込みご飯風のものをつまみに、カーニャ(生ビール)2杯。これで4ユーロ程だから、スペインでもまだまだ安くておいしいものを食べることができる。

バルを出て、また街を歩く。屋台がずらりと並んだ広場に遭遇する。売っているものは骨董品やアクセサリーといった類だ。気に入ったものを見つけることはできなかったが、夏の屋台の雰囲気を満喫する。そして2軒目のバルに入り、ピンチョとパタタス・ブラバスをつまみにカーニャ2杯。通りかかりのバス停で時間をたずねられた時には、もう24時近く、ビールと久しぶりの旅に気分が高揚していたものの、疲れをとるためにホテルへ戻る。

翌日、サラマンカ大学やカテドラルを見学した後、午後4時のバスでオビエドへ向かう。