19 September 2006

中国人であるかどうかという些細な問題

ヨーロッパには外国人や移民に関するジョークが数え切れない程ある。ポルトガルのコメディの有名な台詞で、

「Eu não ser chines, ser japones.(俺は中国人じゃあありえない、日本人だ)」

というのがあるが、このジョークをどう思うだろうか。

先週末、マドリードに宿泊した時の出来事。いっしょに出かけた人数が多かったため、僕らは3つのペンシオンに分かれて宿泊していた。日曜日の朝、僕がゴンサロたちが泊まっている宿へ行くと、

「オラー、チニート!」

と言って宿のおばちゃんが僕に微笑みかける。ゴンサロの友人が、彼は中国人じゃないよ、日本人だよ、と言っても無駄で、おばちゃんは僕を中国人と呼んでくる(チニートだから中国人ちゃん、といったところか)。

日本人を中国人と間違える、これはヨーロッパではよくあることだ。間違える、というよりも、彼らには区別がつかないと言った方がいい。そしてたいていの場合、彼らに悪意はない。先のペンシオンのおばちゃんの場合は僕に呼びかける言葉(つまり僕の名前)がないために、手っ取り早く「チニート」を選んだだけだ。ポルトガル、スペイン、おそらく欧州の全ての国において、話しかける前に必ず名前や愛称を呼ぶのは普通のことだ。

それにしても、「チニート」呼ばわりはないのではないか、それはあんまりではないか、と思うかもしれない(事実、このおばちゃんはちょっと変というか、ボケはじめの感はあった)。僕もポルトガルへ留学して来たころはそう思っていたし、働き始めてからも、事務所に研修に来ていたフランス人の学生とその手の話題で口論(罵り合い)をしたりした。そんな言い方は絶対に許されるべきではないと思っていた。

でも、1年くらい前から、そんなことにいちいち憤慨しているのは馬鹿らしいと思い始めた。悪意のある言い方は当然許されないが、悪意がない限り、彼らは親しみをこめて、半分冗談でそういう呼び方をしているのだということが分かってきたこともあり、ある程度受け入れることができるようになってきた。

何よりも彼らの立場に自分を置いてみるともっと受け入れることができる。アジア、アフリカ、東欧、南米諸国からひっきりなしに入ってくる移民と絶えず付き合わなければならない彼らの立場も理解するべきである。彼らの歴史の結果だから自業自得だ、と言うかもしれない。でも少なくとも現代に生活する彼らに非はない。

彼らは移民とともに生活をしていかなければならない。トラブルは日常茶飯事で、これは日本で生活する日本人には想像のつかないものだ(もちろん日本にも外国からの移民はいるわけだが、それにもかかわらず彼らが存在しないものとして生活することが可能なのが日本だ。)一方で彼らは笑顔で挨拶を交わしたり、世間話をしたりして、できるだけトラブルを避けようともしている。彼らは互いにコミュニケーションを取って生活していかなければならない。たとえ肌の色や体つき、顔の特徴、言葉のアクセントが違っても、だ。

そういう中、差異や特徴をジョークで昇華するのはとても賢いやり方なのだ。言われた方も、そうね、私はあなたと違うものね、と言っていっしょに笑い飛ばす。相手のジョークに乗ってその間に存在する差異をいっしょに吹き飛ばしてしまうのだ。なんでもかんでもジョークで片付けるのは低レベルな話だ、と言うかもしれない。しかし、やってみれば分かるが、ジョークで笑い飛ばすというのはかなりの精神的成熟を要する。彼らのジョークにいちいち激怒していては、自分の人間のレベルをさらけ出してしまうだけなのだ。

「俺は中国人じゃあありえない、日本人だ」

とは、日本人役のポルトガル人役者が中国人呼ばわりされたときに発する台詞なのだが、真剣な表情でその台詞を言うのがおかしい。ポルトガル人からしてみれば、どっちでもいいじゃないか、とツッコミを入れたくなるのである(無論、このセリフのおもしろさは役者の演技あってのものである)。

中国人と日本人がいっしょだと彼らは言いたいのではなく、中国人も日本人も彼らからすれば全く別の生き物なのだ。