30 January 2011

「Biutiful」

イニャリトゥの最新作「Biutiful」を見に行く。大学生の時に見た「アモーレス・ペロス」以来、僕はこの監督の作品が好きなので、彼の最新作がポルトガルで公開されるのを心待ちにしていた。

その多くが「始まり」が「終わり」のような彼の映画は、雪原に立つ二人の男の会話から始まる。バルセロナの移民街で生活する父親ウシバルとその二人の子供たち、そして彼らを取り巻く中国人、セネガル人の移民たち。末期ガンを宣告されたウシバルは、移民たちと、そして一人の警官との不法取引で生計を立てていることが分かる。物語は、社会の底辺とも言われる地域を舞台としているが、特にバルセロナの町を知らずとも、少なくともヨーロッパの都市ではどこでも見ることのできる、いわば馴染みのある地区である。だから映画という以上に、ドキュメンタリーの雰囲気が常にある。つまり、映画の中でわざわざ都市を俯瞰で見せるシーンがなくとも、これが日常と密接に関わったストーリーであることを感じ取ることができる。

ポルトガルの大衆紙「Público」がこの映画を「絶望的な」映画であると評したように、映画全体は常に重い空気に包まれている。その中で、ちょっとした家族の会話や世間話に微笑ましい気持ちになったり、思わず息をのむようなシーンがあったりと、決して単調な映画ではない。ウシバルの死が近づくにつれ、映画は現実と夢の境目が曖昧になり、より詩的になり、最後はこの映画の「始まり」のシーンに戻る。

自分の死が自覚されたとき、全てを整理しておく必要がある。「死」は訪れるものであると同時に、主体的に捉えれば、自分の後に誰かを残していくことであり、彼らのために何かを残していくことである。