25 November 2005

コーヒーにまつわる話

事務所にはコーヒーメーカーが2台ある。1階に1台、2階に1台。以前は受付のある2階にのみ置いてあった。だから、1階で仕事をしている僕の場合、コーヒーを飲むには2階に行かなければならなかった。一日に2度はコーヒーを飲むので、そのためだけに一日2度、2階へ行かなければならなかった。気分転換を兼ねてコーヒーを飲むので、特に面倒に感じたことはなかったのだけれど、1階にもあった方が便利だと考えたのだろう。

ところで、ここで言うコーヒーは、いわゆるエスプレッソだ。あの濃いコーヒーのことだ。でもこの濃いコーヒーにもいろいろな濃さ、そしてこだわりがある。

イタリア人技師、ロッコの場合;
うちの事務所とフロアを共有しているエンジニアの事務所があるのだが、彼らも同じコーヒーメーカーを使用している。そして彼らの中にロッコというイタリア人がいるのだが、ロッコは常に「クルト」、通常のカフェよりもさらに短い、つまり、濃いものを淹れて飲んでいる。

「あんまり水の量を多くするとこのクリームのような泡が消えてなくなるんだ。」

フランス人言語学者、ステファニの場合;
以前までうちの事務所に勤めていたアメリカ人のダリアンの妻。彼らとはいつも昼食をいっしょに取っていたが、その後彼らと行くカフェで決まってステファニが頼むのが、「シェイオ」。通常のカフェよりも量が多目で、薄い。

「いい?カップの縁スレスレまで入れるのよ。」

僕はイタリアにもフランスにも大して滞在したことがないので分からないのだけれど、どうやらイタリアではポルトガルの「クルト」が、フランスでは「シェイオ」がカフェのあるべき濃さのようだ。フランス、イタリア、ポルトガルと、国が変わればコーヒーの濃さも変わるのだが、「アメリカンコーヒー」の話になると彼らは口をそろえて言う。

「あれは汚れた水だよ。」

ちなみに、ポルトガルには、「議論はコーヒーカップの中で行われる」という文句があるそうだ。カフェでコーヒーを片手に議論するポルトガル人。しかし、いざ勘定を済ませ(あるいは勘定を忘れるほど熱く議論をしていたとしても)、カフェを出れば彼らは議論したことを忘れて普段の生活に戻っていく。議論好きだけど、いざ実行する段階になると「やっぱりいいや」とやめてしまう、自他共に認めるポルトガル人の気質のことを指してそう言うのだそうだ。議論の後、コーヒーカップに残るのは、必要以上に入れられた砂糖の塊。確かにそれは甘いだけで何の役にも立たないのだ。